• 東京・新宿・奥神楽坂にあるお琴教室・三味線教室

3. 広がり 江戸時代(1603〜)

中世以降、宮廷社会が衰退して、宮廷箏曲も衰退の途を歩むと同時に、江戸時代には、武家の間で公家文化の雅な世界への憧れが高まり、宮廷箏曲は、武家、大名家への伝えられることとなります。

その一方で、江戸時代に佐賀藩の庇護のもと、武士が行なった唯一の箏曲として特異な存在である前述の筑紫箏曲が存在しました。

もう一つは、前述の、九州へ左遷された天皇の箏師範であった公卿が京都に戻ってきた事により広がった京都での民間箏曲がありました。

さらには、中世、戦国時代に「平家物語」を弾き語りしていた盲人の琵琶法師達ですが、この時代新しく日本に入り、庶民に大変な人気を博した三味線を、琵琶に替わって持ちかえ、三味線伴奏の歌曲「地唄」を創作し始めました。ここに八橋検校(やつはしけんぎょう)による箏曲もレパートリーに加わるようになってからは、地唄と箏曲の二種を中心に行うようになりました。

このように、江戸時代になると、箏は民間にも一気に普及し始めました。箏を専門に作る箏職人も多く出現し、多くの箏屋ができました。

葛飾応為「三曲合奏図」ボストン美術館所蔵

ところで、「八橋検校」と前述しましたが、現代の私達にとって、検校(けんぎょう)とは聞き慣れない言葉です。現代にも多く残されている箏曲の作曲者名を見ると、◯◯検校、◯◯勾当(こうとう)などと記されています。これは、古くは平安時代に、盲目であった親王に仕え、琵琶、管弦、詩歌を学んだ盲人に与えられた官位から流れを得ています。江戸時代には、当道座といって、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれ、それぞれは更に細分化され、合計73個の位がありました。当道座は、中世と同様に幕府から保護を受け、生活も保証されていました。

現代、私達が一般的に行っている箏曲は、盲人よりも圧倒的に晴眼者が多くなりましたが、みな、当道箏曲の流れの上にあります。

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