• 東京・新宿・奥神楽坂にあるお琴教室・三味線教室

4. 現代 明治時代(1868〜)

明治維新により、当道制度は解体されましたが、新政府の新しい制度下で、それぞれ活路を見出し、九州や大阪に存在していた生田流の流派の人々が、東京へ移住を始めました。元々、江戸時代から東京で活躍していた山田検校が作った山田流が優勢だった東京に、九州生田流が普及したのはこの為です。

当道制度が廃止された事によって、作曲、演奏、教授活動は、男性盲人だけではなく、女性盲人も公然と行えるようになりました。そして、徐々に晴眼者も行うようになり、現在では晴眼者、また、女性の方が多くなりました。

さらには、それまでは当道によって管理されていた盲人官位の管理は、各流派での家元制度へと変わりました。

また、明治時代になると、普化宗が解体された事により、それまで法器として禅の修行や托鉢のために吹奏されていた尺八が、広く一般社会に出回り、多くの男性が吹くようになりました。

江戸時代には、箏と三味線に加わる三曲合奏の楽器として、胡弓や一節切(ひとよぎり)、尺八などがありましたが、明治以降、特に尺八の参加が盛んになりました。

明治時代、文明開化の思想は、高尚化を好んだ為、当時の日本音楽は、天皇の新年の勅題や、格調高い歌詞を採用するようになり、それまでの三味線音楽の多くで取り扱っていた遊郭情緒や男女の色事を含む歌詞を好まなくなりました。

一方、箏は出身が雅な宮廷箏曲だった事もあり、生田流の人々は箏を重視し出して、三味線を使う地唄はあまり作曲されなくなりました。この辺りから箏曲に焦点を置いた方向性は一気に発展することになります。

この時代、地唄から離れた箏伴奏だけの歌曲は「明治新曲」と呼ばれています。そして、生田流の宮城道雄により新日本音楽が誕生します。それまでの地唄箏曲に加え、西洋音楽の影響を受け、次々と新しい箏曲を創作しました。箏の独奏曲も多く、歌が中心だった従来の概念を大きく変えてゆくこととなります。

そして現代、箏曲にこだわらず、自由な立場から、自由な楽器編成で、自由な音楽が創作されています。箏の種類も従来の十三弦箏(じゅうさんげんそう)に加え、十七弦箏(じゅうしちげんそう)、二十弦箏(にじゅうげんそう)、二十五弦箏(にじゅうごげんそう)、三十弦箏(さんじゅうげんそう)なども開発されました。1998年からは、中学、高校の音楽授業の中で和楽器を扱う事が義務付けられて、日本の楽器が見直され始めています。

奈良時代に中国から伝来し、その原形をほとんど変えずに今日に至る十三弦箏が、今後も人々に愛され、すたれる事なく大切に受け継がれてゆく事を願ってやみません。

出典 宮崎まゆみ著 「箏と箏曲を知る事典」, Wikipedia

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