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2. 開花 平安時代(794〜)・鎌倉時代(1192〜)・室町時代(1338〜)・安土桃山時代(1568〜)

その後、平安時代には、宮廷音楽が隆盛を極め、遣唐使により箏、箏曲が再び伝来します。奈良時代の楽舞は、朝廷のものであったのに対し、平安時代の楽舞は、宮廷人たち個人も楽しむものになりました。

源氏物語をはじめ、この時代に書かれた物語に出てくる「遊び」とは、「合奏を楽しむ」ということで、風雅を楽しむ暮らしの中で、箏は愛されてきました。

土佐光吉「源氏物語手鑑」より女楽 久保惣所蔵 

さらに、仁明天皇をはじめ、公卿や殿上人の中から名手が続出し、演奏だけではなく、外来楽舞や外来合奏曲を真似しての新作も誕生しました。演奏する曲には、新しく作った歌付きの曲で催馬楽(さいばら)と呼ばれた歌曲や、漢詩を日本語にして歌う「朗詠」が多く奏でられました。

当時の箏曲は、他の楽器との合奏、歌曲の合奏伴奏、独奏など、たくさんの曲があり、その数は平安時代後期には、200曲以上となりました。

この時代から、管楽器は男性のもので、女性は吹かなかったようで、この習慣は近年まで続きました。箏は、楽所に所属している楽人を中心に秘曲などが伝えられた管楽器とは異なり、特に身分の高い人々の間で相伝していったようです。また、箏に限らず弦楽器は、殿上界での相伝が中心だったと言われています。

また、宮廷音楽が開花し、隆盛を極めた頃、中世の寺院では、法要で僧侶たちが歌う声明や、雅楽合奏曲に歌をつけて歌う、越天楽歌物(えてんらくうたもの)とよばれる管弦講(かんげんこう)や延年(えんねん)などの音楽も行われていました。この伴奏楽器を箏だけにして歌うことが始まり、これが九州筑紫箏曲(きゅうしゅうつくしそうきょく)の原形になったと言う説もあります。

この筑紫箏曲の誕生には、天皇の箏師範であった公卿が、天皇のご機嫌を損じて九州へ左遷され、そこで雅楽の越天楽を模して新曲を制定し、数曲の新曲とともに、その地の僧に伝えたとも言われています。

そして、安土桃山時代に筑紫国の善導寺にて僧になり、仏事に使う箏を学んだ賢順が、佐賀の南里、正定寺に来て、原形筑紫箏曲を成立へと導いたと言われています。

また一方では、宇多天皇の時代、897年に筑紫の英彦山(ひこさん)に箏専門の唐人がきて奏楽していたという言い伝えなどもあり、当時の日本の中央の文化とは別系統で、唐から民間レベルで箏奏者たちが来て伝えられていたのかも知れません。

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